由緒
『神奈川県神社誌』(昭和57年)には次の様に載ってゐる(1)。
由緒沿革 創立年月不詳であるが、当神社の勧請について次のような話が伝えられている。
この市杵島神社、俗に弁財天社の鎮座は寛永年間(1624〜1644)にさかのぼり、当時徳川三代将軍家光の治政下、水野十郎左衛門を総帥と仰ぐ所謂、白柄組の中堅幹部・加賀爪某は当部落を知行していたが、多年の遊興によりその財政が逼迫し、治下農民に苛斂誅求を加うるようになった。しかも当地を貫流する引地川の連年に亘る氾濫のため、米作は常に地区民の努力に報いる事無く、等しく窮乏の底に沈んだ。ここにおいて一同、もはや神仏の力にすがるほかなしとし、財福を司る弁財天を勧請し、常に洪水を宮居近くに臨み得る現在の地を卜し、ここに一祠を建立し崇敬した。その信仰の力と神徳によるものか連年凶作も減じ、領主の行状もいつしか改まって民に生色を蘇がえらせたという。昭和五十三年十月に社殿を造営し境内の整備を竣えた。
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『新編相模国風土記稿』の大庭村の条には「山王社」と名のみがある。鎮座地の小名も記されてをらず、当社なのか判断できない。(2)。
| 雑記
| 最寄駅は、小田急線善行駅で東へ2.0kmの所にある。
市役所は、藤沢駅の近くで、南東へ4.6kmの所にある。
写真8にある碑文の「藤沢市西部開発事業」とは「西部土地区画整理事業」で昭和46年から平成4年に亘って行はれた340ヘクタールを宅地や公園などの市街地化した事業(3)。
昭和20年代の地図(4)をみると、現在地から北ないし北北東へ290m程の所に神社記号があり、北谷の地名も記されてゐるので旧地かと思ふが、具体的情報は無い。いま、その地点は道路になってゐる。
大庭について(5)
- 縄文時代前期の土器片、弥生時代中後期・奈良時代の集落跡が確認されてゐる
- 平安時代は大庭郷の中心
- 平安時代末期から室町時代は大庭御厨(伊勢神宮の荘園)の中心
- 江戸時代は大庭村で折戸・稲荷・台・谷・入・小糸の小名があった
- 明治22年、町村制施行で明治村大字大庭となった。
- 明治41年、明治村、藤沢大坂町および鵠沼村が合併して、藤沢町となる
- 昭和15年、市制施行し藤沢市となった
- 昭和46年〜平成4年、西部土地区画整理事業により市街化
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