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熊野神社(神奈川県清川村宮ヶ瀬)

作成日 平成29年7月8日
よみ  くまのじんじゃ 地理院地図
参拝日  平成28年10月21日(金)
所在地  清川村宮ヶ瀬979-25 (北緯35度31分22.66秒 東経139度13分54.20秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP等  神奈川県神社庁 神社詳細 熊野神社
祭神  伊弉諾命 ( いざなぎのみこと )
 伊弉冊命 ( いざなみのみこと )
由緒  社殿前の記念碑には、次のやうに刻まれてゐる。
この社は 古く諏訪神社を勧請当所の守護神として崇敬していた
応永年間武蔵国矢口の合戦に敗れた新田義興氏の郎党矢内入道信吉氏 西郡より山伝いに入り村を隔てる一里余中津川畔の平地に館を構え更に遡る 布川塩水川合流点直下の聖地に奥野権現を祀り氏神として篤く信仰していたが 氏惜しむべし賊徒の凶刃に斃れ一族滅亡 これの祭主を失い荒廃甚だしきをもつて村人寄り合い村内に移し 社号を熊野神社と改め明暦元年九月吉日古社と合祀した
爾後幾星霜宮ヶ瀬の鎮守として氏子の崇敬篤く春秋の祭祀を累ねて現在に至つたが画期的国の公共事業宮ヶ瀬ダム建設により氏子等の住居と共に社域が水没する為永年鎮座の1136番地から八坂神社と共に当地に移築再建 更に水没者の多数移転した 厚木市宮の里地区へ分社を造営 在落合郷第六天社 稲荷神社を 春の木丸940番地14に 又旧村内各部落祭祀の小社を覆殿に移しそれぞれ宇内の平和と氏子の安泰地域の弥栄を祈念する拠所として 永く後世ニ伝承するものである
  平成三年九月五日
    熊野神社氏子中
  転記時に次の文字は当用の字体に置換えた 應→応 號→号 當→当 鎭→鎮 傅→伝
  参考  累ね:かさね 応永年間:1394〜1428 明暦元年:1655

 新編相模国風土記稿巻之五十八の宮ヶ瀬村の条に次のやうにある。( )内は割注部分。
熊野社 奥野権現トモ号ス。古ハ古鰐口ヲ(銘ニ応永元年九月十六日、矢口入道信吉長者トアリシト云伝フ)神体トセシガ今ハ失ス
(中略)
長者屋鋪蹟 坤ノ方山中ニテ布川ニ臨ミシ陸田ヲ云(方二町許ノ平地ナリ)。当村ヲ開墾セシ矢口入道信吉の住シ所ナリ。信吉後人ニ害セラレシト云ノミ詳ラカナルコト伝ヘズ。又村落ヨリ西方(三十町許ヲ隔)山中ニ御殿守ト称シ樹木繁茂セシ所アリ、是信吉ノ女父ト共ニ害セラレシ時、其毛髪ヲ埋ミシ所ト云。
  坤:こん・ひつじさる、南西  応永元年:1394
雑記  小田急線本厚木駅から北西へ距離は15.6km。バスで50分弱、道程20.3km、宮ヶ瀬小・中学校前バス停近くにある。

 記念碑に「古社と合祀」とあるが、古社の名が明示されてゐないので、当初理解出来なかった。文中にある神社を指してゐるなら、諏訪神社のことだらう。
 清川村のweb頁内に「宮ヶ瀬湖水の郷交流館には県重要文化財である鰐口(わにぐち)があります。この鰐口は紀州熊野三處権現を当地勧請して宮ヶ瀬の奥野熊野権現(今はありません)神社のご神体として、祀(まつ)られたものといわれています。鰐口には応永3年(1396)と刻まれ」と記載され、鰐口の写真も掲載されてゐる(1)。風土記稿の記述と一致しない部分があるが、大略一致してゐるとみて良いのだらう。

 この日は、バスを使って訪れた。以前から、自転車を積めるバスが運行されてゐるので、行きをバスで、下りの多い帰りは自転車で、と思つてゐたが、結局バスと徒歩で訪れた。本厚木─宮ヶ瀬 間は670円だが、1030円一日乗車券があるのでそれを利用すると負担が少なく済む。バスの利用に抵抗がなくなつてゐる。
 五回バスに乗り、宮ヶ瀬から煤ヶ谷に掛けての七社と厚木市飯山の一社を巡り、参拝した。

写真



覆殿内の御本殿・神輿・小祠

境内から水の郷大つり橋方向を撮影

脚注
  1.  平成29年7月1日閲覧 清川村 中世・近世


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