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二宮神社(神奈川県相模原市南台)

作成日 平成22年3月14日
追記日 平成25年6月18日
よみ  にのみやじんじゃ
所在地  相模原市南台5-9-5(北緯35度31分3秒、東経139度25分20秒)
HP  神奈川県神社庁 神社詳細 二宮神社
祭神  二宮尊徳命 ( にのみやそんとくのみこと )
由緒 昭和二十二年四月、小田原の報徳二宮神社を勧請。現社殿は、昭和四十四年に再建したもの。
 境内にある石碑には次のやうに刻まれてゐる。
二宮神社誌
寂○*1たるこの相模の原野拾有余軒の人たちひたすら農をいとなみ人煙をあげつつ日頃から至誠報 徳分度推譲と崇高なる徳望は四隣に高き二宮尊徳先生を敬慕す 小田急線開通以来十年此の原 野に臨時東京第三陸軍病院東部第八十八部隊をはじめ近隣には陸軍士官学校 陸軍通信学校等 重要なる軍施設の移転ならびに新設を見たり 此の地まことに活気ある軍都の容貌を呈す たま たま昭和二十年八月十五日第二次世界大戦の終熄を見るや世は平和をはい○しな行過ぎたる行 為行動と思想の混乱甚だしくこれを憂うる古老 若人は信仰の対象 心のよりどころには 神社の建 立をと 森住萬吉 若林竹次郎 吉川良平 鈴木定義 二見繁次郎 高柳国治 鈴木○資 若 林萬五郎 加藤松三郎 澤田弥吉 島本末良 安斉忠幸 木目田才助 豊田鼎三 加藤輔一 若林藤作 井沢長太郎 若林梅次郎 佐藤啓次郎 川島安明 鈴木広志 鈴木和作 安斉善長 等大同団結をもって協力その用地を物色 たまたま相模原市南台五丁目九番地に樹令五十年に○*2 んとする。松林あり この地 平塚市四之宮千壱百六拾番地猪股延太郎氏所有の地なり その位置神社建 立にはいとふさわしく 土地の贈与方について交渉せしところ日頃敬神愛郷の念深い氏の快諾を得 たり 松樹とその土地参百坪なり 里人の歓喜する容相今なお眼前を往来す 二宮神社の御発 展その極に達しているさよう 奇特なるその御行為は永遠に氏子一同銘すべきことなり それよ り協力する人たち樹木の伐採整地に奉仕すること十有余日 御社殿 神楽殿の施工をと それを 相模原市谷口柿島嘉一氏に依頼す 昭和二十一年十一月十七日小雨降る中を地神祭を斉行す ○ 泰鈴木定義宅において会合すること七十余回 建設作業は着々と進み 昭和二十二年四月二十二日完 成を見るや小田原市城内報徳二宮神社にて御分霊を拝受その夜御分霊は森住萬吉宅に御仮泊い たたく 有志徹夜にて警護す 翌四月二十三日遷宮奉祝祭唐植に奉安された霊代は青年若林清萬  森住喜八郎に担がれ里人行列にてこれにしたがう 木の香りも薫る新殿に奉鎮された 神楽殿においては 歌舞伎の上演参拝者絶ゆることなく御祭神二宮尊徳先生の広大無辺なる御神徳をしのびまつる 当時 の氏子数四十三戸なり 同年十二月二十日神社本庁所属神社となり崇敬厚い氏子は参道の整備 祭 器庫の新設特志者による手水舎 鳥居の奉納と形態は整いしが境内地の拡張をと隣地五十五坪八勺を購入 更に社殿の新築をと敬神の念厚い氏子に浄財を勧募せしところまことに多額の浄財の奉納あり感謝に堪 えず 昭和四十四年四月十五日湘興建設株式会社にその施工を依頼銅板葺き木造本殿幣殿拝殿あわせ 建坪十五坪なり 寒村の神社は今や市街地の神社と変貌氏子崇敬者も二千有余となり現今にいたる ここにその当時を回想し その沿革を誌して後世に伝う
   昭和四十九年九月五日  二宮神社初代宮司 古木克巳謹文撰
*1 穴の下に貝
*2 乖の下に山
参拝日 平成21年3月7日(土)
雑記  昭和五十年代前半は近所に住んでゐたので前の通りは良く通ってゐた。とは言へ、一度も参拝してゐなかったし、由緒も知らなかった。 当時、若林性の家にお世話になってゐたので、もしかすると神社設立に係はった方の縁者かもしれないが、たうに他界されてゐるはず。 お話が聞けないのは残念なことだ。
 御朱印は七五三の時期に頂いた。帳簿に入金記録するから名前を教へてくれと言ふ。面食らったが隠すこともないから正直に返答。 役員さんは、なかなか大変である。


平成21年3月7日撮影

平成21年3月7日撮影

平成21年3月7日撮影

平成25年6月9日撮影 道路拡幅で社地が狭くなり配置換へなどの工事中。

・25.06.18 神社誌記載・写真1枚追加


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