神社訪問記HP神奈川県山北町

頼政神社 (神奈川県山北町神縄)

参拝日 令和2年8月26日(水)
作成日 令和3年4月10日(土)
改訂日 令和6年3月9日(土)
 
よみ  よりまさ じんじゃ  
所在地  山北町神縄477
  (35度24分9.65秒 139度2分37.90秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 頼政神社
祭神  源頼政 ( みなもとのよりまさ )
由緒  神奈川県神社誌には次の様に載ってゐる(1)
由緒沿革 由緒不詳であるが、元文元丙辰星建立の棟札を蔵す。
 註  元文元年:1736年

 新編相模国風土記稿には次の様に載ってゐる(2)
頼政神社 村ノ鎮守神体木造(長五寸)仲春季秋ノ望ヲ祭期トス覆殿ニ第六天姥神ノ二社ヲ置村民持下同

 神尾田神社の由緒には、子之神社・浅間神社は明治四十二年に頼政神社に合祀されたが、大正十四年に他村に編入のため廃村となったのを機に、旧社地に神尾田神社を設立したとしてゐる。

 山北町HPには、頼政について次の様に記してゐる(3)
平安時代末期の武将。摂津源氏の源仲政の長男。平氏の専横に不満が高まる中で、以仁王と結んで平氏打倒の挙兵を計画し、諸国の源氏に平氏打倒の令旨を伝えた。計画が露見して準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、平氏の追討を受けて宇治平等院の戦いで敗れ自害した(以仁王の挙兵)。

神縄では、かつては麻をたくさん作ったが、頼政が麻の先で眼を痛めたことから、麻を作らなくなったという。また、地元の旧家の人は片目が細い。これは頼政の子孫だからだといっている。
雑記  三保ダム堤体から南南東へ0.8km、山北町役場からは北西へ6km弱(道程10.4km)、最寄の鉄道駅の御殿場線谷峨駅から北へ4.1km。バス停が0.3km程の所にある。

 当社から道路を挟んだ南側はキャンプ場となってゐる。神縄の集落は当社から離れてゐる。かつてはキャンプ場の辺りは人家があったか、畑だったかと想像してみるが、それ以上の手がかりなし。後に、昭和42年の航空写真を見たところ、畑だった。

 3月28日(令和3年)から図書館が使へる様になって、厚木中央図書館で当社の由緒を調べてみたが、町史は無く、足柄上郡誌に数社の由緒が記されてゐるのみであった。山北町HPには「町では町村合併40周年記念事業として、平成7年度から平成18年度まで山北町史編さん事業を行いました。」とあるから、将来、室生神社へ行く機会があれば町の図書館で調べ物をしよう。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

社頭

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

社殿正面

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

社殿、斜め前から撮影

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

拝殿内

本殿が三つあるので、新編武蔵国風土記稿にある「第六天姥神ノ二社」だらうか。

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

写真6
写真6 拡大 (1280×960)

境内にある橡の木(トチノキ)。案内掲示が二種ある。それらによると、昭和三十九年に神奈川県指定天然記念物に指定され、昭和五十九年には「かながわの名木100選」に選定されてゐる。樹齢は推定350年、胸高周囲5.3メートル、樹高25メートル。


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.416
  2. 『新編相模国風土記稿』 巻之十六 神縄村の条 (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)
  3. 令和3年2月26日閲覧 山北町HPの頼政神社(よりまさじんじゃ)のトチノキ

改訂記録
  • 令和06.03.09 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 神社庁web神社情報のリンク修正。 白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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