神社訪問記HP神奈川県山北町

高杉大神宮(神明社) (神奈川県足柄上郡山北町皆瀬川)

参拝日 令和2年8月26日(水)
作成日 令和3年4月17日(土)
改訂日 令和6年3月7日(木)
 
よみ  しんめいしゃ  
所在地  山北町皆瀬川1533
  (35度23分2.22秒 139度3分55.71秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 神明社
祭神  大日孁貴命 ( おおひるめむちのみこと )
 大山祇命 ( おおやまつみのみこと )
 金山彦命 ( かなやまひこのみこと )
 倉稲魂命 ( うかのみたまのみこと )
 大山咋命 ( おおやまくいのみこと )
 素盞嗚命 ( すさのおのみこと )
 火結命 ( ひむすびのみこと )
 天児屋根命 ( あめのこやねのみこと )
由緒  神奈川県神社誌には次の様に載ってゐる(1)
由緒沿革 創建年代不詳であるが、南北朝の頃城主河村氏の崇敬が厚かったことが文献に見える。古来高杉大神宮と称し、近隣はもちろん遠く越後、奥州よりの参拝が多かった神社である。伊勢は遠いのでここに参拝したと伝えられる。附近一帯はすべて伊勢神宮と同じ地名が附せられている。建武の頃より伝えられる御峯入の神事が残っており、県の無形文化財に指定されている。

 新編相模国風土記稿には次の様に載ってゐる(2)
神明社 村ノ鎮守ナリ里俗高杉太神宮ト呼ベリ(内外二宮祠ヲ安ス内宮ノ神体銅鏡ノ内仏像二体鋳出セリ外宮ノ神体神鏡像鋳出ナシ共ニ無銘ナレドモ古色ニシテ近代ノ物トハ見ヱズ)例祭八月十六日山神ヲ相殿トス村持下同
雑記  御殿場線山北駅から北北東へ2.9km(道程5.9km)の山中にある。

 地図を見ると、道路があるので行くことにした。皆瀬川沿ひの県道725号線を北上して、対向車が来ないことを願ひながら、右折ヶ所を気づかず通り過ぎ、0.5km程でおかしいかもしれないと不安になり、更に0.5km先で右折路をやっとあった!、と登って行くも小さな尖つた落石がタイヤに刺さりやしないかと心配になり、引返し、更に北上するも、カーナビの示す現在地は目的地から離れて行く。地理院地図で道を確認したら随分行過ぎてゐた。当初考へてゐた道は遠いので一旦引き返した道を再び行くことにした。市間の交差点まで来たら、ほっとした。
 ウラジロガシの所で見学ついでに一休み。この先の傾斜はきつかった。
 帰路、オートマ車は急な下り坂はエンジンブレーキが殆ど期待できない。登り以上に速度を落し、ゆつくり降つた。市間の交差点を過ぎて当初通らうとしてゐた道を降る、舗装されて走りよい。往路は、もつと引返してこの道を通るべきだつたと反省。
 「お峯入り」で集る人達は歩いて来るのだらうか。

 五年毎に「お峯入り」が行はれてゐる。次は来年(令和四年)。
 「お峯入り」とは山中で修業を行うことを意味し、修験道の儀礼が芸能化したものと考えられている、国指定重要無形民俗文化財。(3)

 ところで、300年前、当地は大災害に見舞はれた。
 富士山の噴火だ。宝永噴火は、宝永四年十一月(1707年12月)に富士山は噴火し始め、噴出物は東へ飛び、風に流され、皆瀬川村では60cmも積ったと云ふ。
 新東名の建設に当つて遺跡調査が行はれてゐるが、秦野の辺りでは「天地返し」の遺構があると云ふ。宝永噴火による火山灰の下の土を掘り起こし、後から降り積もった宝永の火山灰と掘り起こした土の上下を入れ替えて、新たに耕作を行ったと云ふ。そんな特徴があると知つたばかりなので、当地の被害の様子に関心が向いた。
 宝永噴火の灰について、最初に知つたのは、藤塚浅間神社(厚木市)の訪問記を書いてゐるとき(平成21年)で、浅間神社近辺は10cm程の降灰を集めて、高さ6m、面積186坪(610m2)の塚を造つたと云ふ。後に飛行場を造つたと云ふ平坦地での事だつた。
 当地では山間部で、60cmも積つた。灰ではなく砂と表現されてゐる。富士山に近いから粒径が大きい訳だ。田畑は耕作出来ないし、山も荒れる。雨が降れば、山の上から流れ出てくる。川に溜る量は、大雨で扇状地を作るには打つて付けだ。ただ、そこは、人の生活してゐる場。餓死者も出たと云ふものの、命を繋いできたのは立派なこと。砂は深いにも拘らず、当地でも天地返しは行はれた。(4)
 何も判らずに車を走らせ、神社にお参りしてゐた。見る目を変へる必要がある。300年前のことだが、痕跡があるかも知れない。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 社頭
写真1 拡大 (1280×960)

社頭

「お峯入り」の舞ひは、鳥居の前辺りで舞はれる。

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

鳥居の扁額は「神明社」とある

写真に向つて左に石碑がある。碑題は私には読めない。碑題の脇の文字は「登岳六十八度廿三年水行 中講義的井庄右衛門」と読める。

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

社殿正面

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

覆殿内

写真6 社殿前から鳥居方
写真6 拡大 (1280×960)

社殿前から鳥居方を見る

写真7 境内からの眺め
写真7 拡大 (1280×960)

境内からの眺め

小田急線開成駅付近、手前に開成町立文命中学校・神奈川県立吉田島高校、更に手前には開成あじさいの里、酒匂川の向こうには寒川県立大井高校が見えた。

写真8 天然記念物のウラジロガシ
写真8 拡大 (1280×960)

ウラジロガシ

案内板(平成四年九月の県教育委員会・山北町教育委員会設置)によると、
 神奈川県指定天然記念物。昭和五十三年十一月に指定された。推定樹齢三百年、樹高二十一メートル、樹冠が南北二十メートル東西十七メートルとこれだけ大きな樹冠を形成してゐるウラジロガシは今日稀、
と云ふ。

 当社(標高510m余)から北北東へ0.3km、標高420m程の所にある。
 推定樹齢300年とは、富士山の宝永噴火時(60cmの降下火砕物・焼砂)と同じなのは理由があるのかも知れない。


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.418
  2. 『新編相模国風土記稿』 巻之十六 皆瀬川村の条 (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)
  3. 令和3年4月12日閲覧 山北町HP 山北のお峯入り
  4. 令和3年4月12日閲覧 いさぼうネット コラム6: 1707年富士山宝永噴火〜長期間に及んだ土砂災害〜 五大開発株式会社 土木情報サービス 2015-07-16

改訂記録
  • 令和06.03.07 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。 神社庁web神社情報のリンク修正。 白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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