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御霊神社 (横浜市栄区長尾台)

参拝日 令和4年4月8日(金)
作成日 令和5年3月20日(月)
追記日 令和6年2月3日(土)
よみ  ごりょうじんじゃ
概要  横浜市栄区長尾台の長尾氏の居館跡に鎮座する。祭神鎌倉権五郎景政は平安時代後期の武士で鎌倉を開発した。長尾氏は上杉謙信の祖。江戸後期には鎌倉郡山之内庄長尾台村の鎮守だった。  
所在地  横浜市栄区長尾台372
  北緯 35度21分45.15秒
  東経139度31分35.75秒
 地理院地図(ズームレベル15)
 マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
    
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 御霊神社
祭神  鎌倉権五郎景政 ( かまくらごんごろうかげまさ )
 大國主命 ( おおくにぬしのみこと )
由緒  元 村社
 向拝に由緒額が掲げられてゐる。文は次の様。
長尾臺御霊神社由緒
 鎌倉郡豊田村長尾臺字宮之前参百七十二番地
村社御霊神社
一、祭神大國主命
一、由緒 鎌倉権五郎の景政の玄孫景弘始めて長尾の地に住し長尾次郎と称す 是長尾氏の祖なり景弘□長子新五為景己が祖先を奉斉せる村岡村宮前御霊宮の分霊を勧請し当神社を創立せり 後相原天皇の御代永正の頃社領二段を有せり
明治六年十二月村社に列せる 明治二十二年八月十二日同所無格社十二天社(祭神大國主命)を合併す
大正十二年の震災に社殿大破 昭和二年二月二十五日本殿及拝殿を新築せり
昭和六十年九月七日本殿及拝殿を改築す
 改築記念氏子中

『神奈川県神社誌』(昭和57年)には次の様に載ってゐる(1)
由緒沿革 鎌倉権五郎景政の玄孫景弘、始めて長尾の地に住し長尾次郎と称した。その長子新五為景が、祖先を奉斎せる村岡村宮前御霊神社の分霊を勧請したものである。明治二十二年八月、十二天社を合祀した。

 註 神奈川県神社庁web掲載文と同一(令和5年3月14日現在)

『新編相模国風土記稿』には次の様に載ってゐる(2)
御霊社 村ノ鎮守トス。円覚寺塔頭龍隠庵蔵。永正六年庵領年貢目録二。御霊分田二段ト記セシハ当社領ヲ云ヘルナルヘシ。例祭十一月十六日。村持。
稲荷社
十二天社
雑記   最寄駅は東海道線大船駅で、当社から南南東(160度)へ1.1kmの所にある。

 当社の勧請元の宮前の御霊神社の祭神は、当初は崇道天皇(光仁天皇第二皇子早良親王)の一座で、のち鎌倉権五郎景政を合せ祀り、北條頼時の命(1200年代半ば)で三柱を合祀してゐる。時系列でみると、当社の勧請は二柱を祀ってゐる時になされたと思はれる。崇道天皇は忘れられたのか、単に記載を略されたのか?
 社殿に向って右側後方には「戦国大名、上杉謙信の祖 長尾氏の居館跡」と題した説明板がある。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 参道
写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 参道の鳥居
 (写真1で微かに見えてゐたもの)

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 境内
 正面の少し高い所に本社がある。向って左側の鳥居は御嶽社への道

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 本社 正面

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 本社 斜め後ろから撮影

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 拝殿内

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 拝殿前からの眺め

写真8 写真8 拡大 (1280×960)
 御嶽社のへの参道(写真3参照)

写真9 写真9 拡大 (1280×960)
 御嶽社(覆屋)

写真10 写真10 拡大 (1280×960)
 御嶽社(覆屋内)
 狛犬は狼とみられる


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.99
  2. 新編相模国風土記稿』 巻之百二 長尾台村の条 (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)

改訂記録
  • 令和06.02.03 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。HP等欄のリンク切れ修正。

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