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宮沢神明社 (横浜市瀬谷区宮沢)

参拝日 令和3年6月12日(土)
作成日 令和4年3月26日(土)
追記日 令和6年2月17日(土)
よみ  みやざわ しんめいしゃ  
所在地  横浜市瀬谷区宮沢3-21-7
  (35度26分55.97秒 139度29分23.49秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
    
HP等  神奈川県神社庁 神社情報 神明社
祭神  天照大神 (あまてらすおおみかみ)
由緒  境内にある瀬谷区役所による掲示には次の様にある(横書)。
宮沢神明社 (みやざわしんめいしゃ)

 祭神は天照大神です。その創建年代は明らかではありませんが、江戸時代の寛永年中(1625年〜1635年)旗本石川六左衛門重勝支配下の上矢部村民が耕地を開墾して宮沢に集落をつくったと言われ、承応元年(1652年)に検地が行われいることから、建立はその前後と思われます。当時より諸人の崇敬を集め今日に至っています。
 社殿の左には、「農耕の神」と「養蚕の神」が祭られており、九月の最終土曜日に例祭を行っています。
 現在の社殿は昭和63年(1998年)1月23日に氏子の寄進により再建されました。
  平成10年3月
瀬谷区役所 平成26年12月貼替

 神奈川県神社誌(昭和57年刊)には次の様にある(1)
鎮座地 横浜市瀬谷区宮沢町赤関521
境内社 三峰神社 蚕祖神社
社殿  妻入茅葺 10.83坪
由緒沿革 創立年代不詳であるが、古来宮沢町の鎮守である。社殿は安政四年九月の建造で、境内古木及び鳥居等の工作物により、江戸時代以来の古社なることが推察される。
   社殿の写真が載ってゐて、茅葺の社殿である。住居表示も現在とは異なってゐる。

 新編相模国風土記稿には次の様に載ってゐる(2)
神明宮  村ノ鎮守トス。例祭十月二日。東福寺持
雑記  最寄駅は相模鉄道本線の三ツ境駅(北北東(30°)へ2.4km、区役所が近い)で他に瀬谷駅(北北西へ2.5km)、いずみ野線いずみの駅(南南東へ2.2km)も近い。


 当地について瀬谷区webには次の様に載ってゐる(3)
 明治30年代以降は養蚕が盛んだった。平成11年から12年にかけて宮沢町で町界町名地番整理事業を行っている。また、これにともない、阿久和町及び宮沢町については廃町となった。

 昭和14年の横浜市編入の際、鎌倉郡瀬谷村大字宮沢から新設した町。昭和44年10月1日の行政区再編成にともない、(旧)戸塚区から編入。古くは鎌倉郡宮沢村といい、鎌倉郡上矢部村から移住した人が田畑を開拓したという。明治22年の市町村制施行の際、二ツ橋村、瀬谷村と合併して瀬谷村大字宮沢となる。町名は旧村名を採った。東側を和泉川が流れ、橋の親柱に鳴り車のある赤関おとなり橋が架かっている。

 瀬谷区の歴史には次の様に載ってゐる(4)
慶安五年(一六五二年)割付高に窮した上矢部村民が荒地を開墾して宮沢部落をつくったといわれる

 新編武蔵国風土記稿には次の様に載ってゐる(2)
当所ハ其始草野ニシテ住民モナカリシヲ御入国ノ後上矢部村ヲ石川四郎左衛門重政ニ賜ヒシ時其村高ノ不足ヲ補ハレシカ為当所ヲ副賜ヒシカバ頓ヲ上矢部ノ村民数人ヲ爰ニ移居セシメ田圃ヲ開墾シテ遂に村落ヲナスト云(土人伝ヘテ慶安五年始テ開墾スト云ヘド既ニ正保国図ニ村名見エタレバ訛リナリ 慶安五年ハ即承応元年ニシテ是年始テ検地アリシヲ全ク伝ナルベシ)
  註  正保国図は、正保元年(1644)に作成が命じられた。 慶安五年:1652

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1
写真1 拡大 (1280×960)

写真2
写真2 拡大 (1280×960)

階段を登り切ったところから撮影

一の鳥居をくぐって左側には手水鉢がある。昭和六十三年一月に奉納されてゐる。

写真3
写真3 拡大 (1280×960)

二の鳥居と社殿、社殿に向って左側に境内社があるのが判る

鳥居は、柱に昭和六十三年一月吉日と刻まれてゐる。

写真4
写真4 拡大 (1280×960)

社殿正面

狛犬は、奉納者名とともに昭和六十二年十一月建之と刻まれてゐる。

写真5
写真5 拡大 (1280×960)

斜め前からみた社殿

写真6
写真6 拡大 (1280×960)

社殿側面

写真7
写真7 拡大 (1280×960)

境内社。社殿内には、夫々、三峯神社・白姫神社と札が掲げられてゐる。

瀬谷区による由緒掲示には「農耕の神」と「養蚕の神」としてゐる。三峯神社は眷属の狼が猪などから作物を護ることから、白姫神社は衣の神を祀ることからと思はれる。同区三ツ境には白姫神社があり、旧地は宮沢の隣りの阿久和町と云ふ。両社に関係あるのかとも思ふが、想像でしかない。

国土地理院地図の、明治から昭和29年の地図には宅地を除く一面に桑畑と表示されてゐる。


出典・脚注
  1. 『神奈川県神社誌』神奈川県神社庁編 昭和57年(1982) p.99
  2. 『新編相模国風土記稿』 巻之百一 宮沢村の条 (同書は天保12年(1841)完成。鳥跡蟹行社刊(明17-21)の活字翻刻本を引用。漢字は現在当用の字体に置換へた)
  3. 令和4年3月20日閲覧 横浜市webの 瀬谷区  瀬谷区の町名とその由来
  4. 『瀬谷区の歴史(宗教編)』昭和五十年六月、昭和五十五年一月改訂 瀬谷区の歴史を知る会編 瀬谷区市民課社会教育係発行 p.20

改訂記録
  • 令和06.02.17 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。神社庁web神社情報のリンク修正。白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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