よみ
おけと じんじゃ
| 概要
| 北海道オホーツク総合振興局管内置戸町字置戸に鎮座する。
- 大正三年、伊勢神宮の御分霊奉戴をもって創祀
- 昭和五年、神社創立許可を得、翌六年、現在地に社殿建設し遷座
- 昭和七年、村社に列格
- 平成十一年、社殿造営。翌年には式典開催、境内整備等付帯工事実施
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所在地
| 〈オホーツク管内〉置戸町字置戸238
北緯 43度40分36.26秒
東経143度35分49.63秒
地理院地図(ズームレベル15)
グーグルマップ(ズームレベル14)
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地図
| 参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
・東西290km 南北270km
・+印:当社位置
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・東西 1.6 km × 南北1.3 km、
・○印:本殿の位置
・上図は原寸大を71%に縮小表示
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HP等
| ・北海道神社庁 北海道の神社 置戸神社
・当社 Facebook
・当社 Instagram
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祭神
| 天照大御神(あまてらすおおみかみ)
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由緒
旧社格 村社
北海道神社庁誌(平成11年)には次の様に載ってゐる(1)。
由緒 置戸神社は大正三年十月十四日岡村八十一・川村良平・上田喜太郎・清水三吉・瀬谷博治らが発起人となって、現こじか保育園の所に祠を建立、伊勢神宮の御分霊奉載をもって創祀としたが、この地は土地が低く湿地帯であるので適地ではないとして、同十一年六月十四日拓殖線路の沢高台に移遷し、祭祀を行っていた。しかし、この場所も市街地に遠く、管理に適切を欠き、建物も荒廃してきたということで、昭和五年神社創立に関する会議を開き、鎮座地を置戸橋向いの現神社地に決定出願し、九百坪の無償使用許可と神社創立許可が承認された。同六年一月の村会で村長は『一村ノ鎮護神トシテ崇メル祭神ガナイノデ村民思想ニ一致ヲ欠キ、信仰ノ中正ヲ失フ様ナ傾ガアルノデ、歴代理事者ハ村社ノ建設ニ腐心シテ今日ニ至リマシ夕。昨年十二月二内務省ヨリ創立許可ノ指令ガアリ茲ニ建設ノ機運ニ至リ云々』と報告し、同六年六月十四日遷座祭を斎行している。
合併により合祀された歴史をもつ御祭神 (*)
川南神社(かわみなみじんじゃ) 天照大神
白髪神社・春日神社(しらかみじんじゃ・かすがじんじゃ) 天之御中主大神 倉稲魂大神
三春神社(みはるじんじゃ) 天照大神 豊受大神
境内外攝末社
山の神(やまのかみ)(石碑) 久々能智神 大山祇神 五十猛神
忠魂碑(ちゅうこんひ) 置戸町内出身の英霊(197柱)
(*) 所在地は置戸町史の記載と照らし合せると次の通り
川南神社:川南 白髪神社:豊住 春日神社:常元 三春神社:常元東
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置戸町史(昭和60年)(2)、続置戸町史(平成21年)(3)には次の様に載ってゐる。
(置戸町史より抜粋)
昭和六年六月十四日 置戸神社の落慶遷宮式は、開村以来といわれる盛況のなかで挙行され、一村の鎮守として奉祀された。
昭和七年二月 村社に列格
昭和八年 神饌幣帛供進社に指定さる
(続置戸町史より抜粋)
昭和四十一年 社務所新築
平成 十一年 社殿造営着工し竣工
平成 十二年 二月記念式典・落成祝賀会開催、境内整備等の付帯工事実施
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三吉神社(境内社)の由緒 置戸町史(昭和60年)、続置戸町史(平成21年)には次の様に載ってゐる。(漢数字の表記は、町史の表記のまま)
(置戸町史より)
置戸市街東一・二丁目の境界山手に建つ三吉神社は、明治四四年(一九一一)太平山三吉神社(秋田市赤沼)から勧請、置戸では石工が刻んだ最も古い碑である。
建立者は雑貨商を営んでいた河口忠輔、鉄道工事関係の仕事から手を引き自営の店を始めた河西貴一、それに渋谷定吉と石垣春治の名が刻まれているが、後の二人についてはなにをしていた人か分からない。勧請したからには、秋田の太平山三吉神社と置戸の間でなんらかの因縁があったと思われるのだが、前記の河西、河口は出身地からみて秋田と関係があったとは思われず、残る二人が本山と関係があったのかも知れない。
いずれにしろ霊峰太平山に祀る三吉神社は古代王朝の頃から、勝利成功、事業繁栄の守護神として、また力の神としてその霊験顕著なことをもって知られていたので、東北出身者の多い置戸でいの一番に集落の中心的存在として祀ったのも不思議ではない。
中略
置戸に建立された三吉神社は、工場主や商店主、鉄工場主、あるいは林業・運送業で働く多くの人より奉祀来拝され、木やり歌のなかにも取り入れられるほど崇敬もされ、昭和一二年に宮脇憲二が石灯ろう、同二六年には土屋只一が本殿、屋根を菊地久三、鳥居を三井木材がそれぞれ寄贈している。
置戸は同五六年綱引き日本一の座について以来、力の神様としての三吉神社が脚光を浴びている。
(続置戸町史より)
平成一七年七月、治山工事のため、市街山手通りに建立の三吉神社を置戸神社境内地に移転、破損箇所の改修も行われた。
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| 雑記
| 最寄駅は東北東へ28kmの所に石北本線北見駅がある。場合によって(目的地が旭川方面等)は、北へ12km余の所にある石北本線留辺蕊駅が近い。かつては置戸に鉄道の置戸駅があった。(明治44年開業、平成18年廃止)
また、置戸森林鉄道があった。
町役場は、当社から西へ0.8km余の所にある。
鉱山
水銀鉱山があった。野村鉱業置戸鉱山で、昭和16年から採掘、25年閉山。字北光の当社から北東へ1.7kmの辺りには下鉱山・上鉱山のバス停があり、昭和22年の航空写真(4)を見ると、バス停辺りには長屋とみられる建物20棟以上が整然と並んでゐる。最盛期は2000人余が働いた(5)と云ふから、町の人口と比較するとその多さを想像できる。粗鉱生産量は765万トン、品位は水銀0.61〜2.80%(6)。
置戸町デジタル郷土資料館には、北光野村鉱業の水銀鉱石・春富鉱山の金鉱石が展示されてゐる(7)。辰砂とは名は良く承知してゐるが、実物は見たことがない。そのやうな者には、デジタル資料館の画像はありがたい。
黒曜石産地
置戸は遠軽町白滝、上士幌、赤井川と並んで北海道でも特別大きな産地として数えられています。安住遺跡や所山遺跡などでは大規模な石器生産遺跡が確認されています(8)と云ふ。
明治以降の定住者
置戸に居を構え、人が住むようになったのは明治31年(1898年)、平取出身のアイヌ・平村エレコーク氏が始まりで、和人の入植第一号は明治36年(1903)の石川県出身者(9)。
置戸町の開基
2015年には開町100周年を祝った。100年前の1915年は大正4年で、野付牛村から分村して置戸村が成立した年。
一説に明治45年(1912)が開基。池田─網走間の鉄道(当時の名称は網走線)開通に伴ひ置戸駅が開業した翌年。鉄道開通前は79戸だったのが三年で330戸になったと云ふ。
尚、置戸町webで「開基」と検索しても、検索結果なし。置戸町デジタル郷土資料館で掲載されてゐる記念品の昭和二十五年の湯飲みには「置戸町開基三十五年 町制施行記念」と記されてゐる(10)。祝賀行事が行はれた。昭和25年の35年前は大正4年で、開町の年と同じ。
置戸町の意図はわからないが、「開基」を嫌ふ人達の圧力で、この言葉を使はなくなった他自治体も増えてゐるらしい。
森林鉄道
置戸森林鉄道は官営で敷設された最初の森林鉄道(温根湯森林鉄道と同時期)。置戸駅を起点として常呂川とその支流に沿って敷設された。蒸気機関車6輌体制だったから多くの人が官行斫伐に携ったに違ひないが、町の発展への影響ともども、具体的な事は調べないと判らない。(11)(12)
【置戸町】について
- 人口等
- 人口 2645人(令和5年6月末、厚木市の1.2%)
町では、四地区に分けて把握してゐる。令和元年の人口は、秋田:193人、境野:503人、置戸:1916人、勝山:225人、計2837人。(13)
- 面積 527km2(厚木市の5.6倍)
- 産業 畑作・酪農・林業・林産業
- 沿革
- 明治41年(1908) 豊住地区の開基
- 明治43年(1910) 秋田地区開基(雄物川の氾濫による水害難民が入植した)
- 明治44年(1911) 鉄道開通(網走線、後、幾度かの線名改称)
- 大正4年(1915) 野付牛村(現北見市)から分村し、置戸村となった。
- 大正9年(1920) 訓子府村を分村
- 大正10年(1921) 置戸森林鉄道開通(昭和37年(1962)廃止)
- 昭和16年(1941) 村内に15字を設置
- 昭和25年(1950) 町制施行
- 昭和30年(1960) 町の人口ピーク(国勢調査時、12671人)
- 昭和52年(1977) 図書館貸出し率全国1位、夏祭に「人間ばん馬」登場
- 令和元年(1989) 国鉄池北線140kmが第三セクター化(ふるさと銀河線へ)
- 平成18年(2006) 鉄道廃止(開通時は網走線、廃止時線名は、ふるさと銀河線)
- 置戸町の神社 神社庁包括下の社は、置戸神社・勝山神社の二社がある。地理院地図にある神社記号の数は二社のほかに、6箇所ある。(14)
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