よみ
おこっぺ じんじゃ
| 概要
| 興部神社は北海道オホーツク総合振興局管内興部町に鎮座する。創祀は明治三十二年、昭和五年に札幌神社(現北海道神宮)の開拓三神を奉斎し、昭和十年に公認された。昭和十五年に村社に列格した。
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所在地
| 〈オホーツク管内〉興部町字興部1066番地
北緯 44度28分40.14秒 143度6分54.55秒 東経143度6分54.55秒
地理院地図(ズームレベル15)
マピオン(ズームレベル13)
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地図
| 参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
・東西290km 南北270km
・+印:当社位置
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・東西 1.6 km × 南北1.3 km、
・○印:本殿の位置
・上図は原寸大を71%に縮小表示
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HP等
| 北海道神社庁 北海道の神社 興部神社
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祭神
| 大國魂大神 (おおくにたまのおおかみ)
大己貴大神 (おおなむちのおおかみ)
少彦名大神 (すくなひこなのおおかみ)
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由緒
北海道神社庁誌にはつぎの様に載ってゐる(1)。(適宜改行した)
由緒 本町開拓の草創である明治三十二年九月、住民の総意を結集し、富山県移住団体長堺井常右衛門らが発起人となり、興部原野 (北興)に小祠を建立し、天照大神を奉斎したのが創祀とされている。
その後社殿を市街地に移転することとなり、大正初期、現在の緑ヶ丘の土木現業所附近の丘に社殿を新築し四ヶ年間祭典を執行した。
その後大正四年現在の幸町国道の跨線橋下附近に社殿を移し、大正八年現在地の宮下町宮ヶ丘に移転した。昭和五年神殿一棟を新築し参道も山側より市街側に新設し同年札幌神社(2)の御分霊を奉斎した。その後米田千松ほか二〇四名が連署の上神社創立を出願、昭和十年六月十八日承認された。昭和十四年二月、紀元二千六百年記念事業として改築を決定し、総工費一万八千円で旭川市の平山久造に工事を依頼し、昭和十五年十月九日竣工した。 同年九月村社に列格、続いて同年十月神饌幣帛供進指定神社となった。
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社頭には由緒が板に記されてゐるが、かすれてゐて読取れない部分があるが、判る範囲で記す。
由緒
明治□拾弐年九月弐拾五日本村開拓
先駆者等ノ奉斎ニ創基セラル
昭和五年八月社殿造営同年九月八日□
官幣大□札幌神社御祭神ノ分霊ヲ拝受
□□□□□□□拾八日創立許可セラル
□□□□□□□参拾日創立完了ス
□□□□年九月拾弐日□社列格セラル
□□□□□□年記念事業トシテ社殿□□
□□□□□□□□□□□□□同拾五年九
□□□□□竣工同年拾月九日御遷宮式ヲ
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| 雑記
| 最寄駅は宗谷本線名寄駅で西南西(253度)へ54km(道程70km)の所にある。市街地は興部川の右岸側(当社は左岸側)で町役場は南東(128度)へ1.1kmのところにある。
かつては、名寄本線の興部駅が南(172度)へ0.9kmの所にあった(大正10年開業、平成元年名寄本線廃線に伴ひ廃止)。
興部町ついて
- 人口等 人口 3600人 面積 363km2(厚木市の3.9倍)、人口密度 9.9人/km2 昭和30年には人口9300人余だった。
- 二級町村制の興部村 大正4年(1915)、瑠橡村(るろち)、沙留村(さるる)、興部村が合併し、二級町村の興部村となった。
- 瑠橡村の場所 興部と沙留は地名が残ってゐるので場所は判る。瑠橡村の場所は地名としては見当らないが、現在の豊野・豊畑辺りで沙留と興部の間になる。瑠橡川流れてゐる。かつて名寄本線豊野駅があり、駅名の由来が瑠橡は「読みにくいという理由により上流域が豊畑(とよはた)、駅が設けられた下流域が豊野と改名され、駅名に採用された。」(3)と云ふことであった。
- 町制 昭和26年(1951)、町制施行
- 町内の神社 神社庁包括下にあるのは当社と沙留神社の二社。地理院地図の神社記号によると他に七つの神社記号がある。(4)
多田輝利顕彰碑
当社南の隣接地に興部公園があり、多田輝利顕彰碑がある。田中敏文書で昭和三十五年三月三日建之、とある。碑文は、次の様。(正字が使用されてゐる。当用の字体に置換えた)(写真9参照)
顕彰詞
多田輝利先生ハ、明治二十四年三月三日岐阜県式儀郡 下牧村ニ生誕。幼ニシテ俊秀 若冠十七歳ニシテ専検ニ合格、四十三年七月十九日、拓北ノ雄図ヲ抱キ興部ニ入地。爾来五十有星霜、内剛外柔、至誠一貫ノ資性、逞シキ実践力、豊カナ識見ト賢明ニシテ温カキ内助ノ功ト相俟チ、天ノ時、地ノ利ト人ノ和ニ立ツテ、村議・村長・町長・道義等ヲ歴任シ、地域ノ政治・経済・産業・教育・宗教・文化等ノ振興開発ニ、其ノ若サノ総テト、持テル抱負経論ヲヒタスラニ傾ケ蓋シ、偉大ナル貢献ヲ致サル。今、其ノ徳、其ノ業績ヲ讃仰スルノ声翕然トシテ結聚シ”地方開発ノ先駆者”ガ為メ、郷党相図リ、コノ碑ヲ建ツ
昭和三十五年庚子三月三日
多田輝利先生顕彰碑建立協賛会選文
註
・田中敏文:建碑当時の北海道知事
・下牧村:現在の岐阜県美濃市の一部
・専検:旧制専門学校進学のための試験「専門学校入学者検定試験」の略称。「ラクダが針の穴を通るよりも難しい」と評判で、検定合格の為には、いかなる難関校でも合格ができるほどの実力を必要とした。(5)
・翕然:きゅうぜん 翕は、あつまる意
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町の広報誌の町長日誌(2012年)(6)に多田輝利氏のお孫さんが顕彰念碑の場所を尋ねに来られた話が載ってゐた。叙勲を記念して建立されたとか。現在の設置場所興部公園は、興部開基90周年を記念して昭和53年前後に整備されたので、其頃に当初の設置場所から町を見渡せる現在地に遷されてのではないかとも。
二日日の神社巡り、当社は三社目。
11時少し前に着いて、30分余滞在し出発。計画より1時間38分の遅れ。次の雄武神社には充分、12時前には着ける。町内の神社としては、雄武神社の後で北興の愛宕神社を参拝予定としてゐたが時間の都合で叶わない。
また、今調べてゐて判ったのだが、興部駅跡が道の駅となってゐて交通記念館がある。関心はある。9000人の人口があった頃の賑ひの一端を感じられるだらう。ただ、前もって判ってゐても神社巡り優先なので立寄りはしなかっただらう。
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