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留寿都神社 (北海道〈後志〉留寿都村)

参拝日 令和元年9月20日(金)
作成日 令和2年10月20日(火)
追記日 令和6年3月14日(木)
よみ  るすつ じんじゃ  
所在地 〈後志管内〉留寿都村字留寿都26番地 (42度44分31.40秒 140度52分44.82秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。 (最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等 ・北海道神社庁 北海道の神社 留寿都神社
祭神  天照皇大御神(あまてらすすめおおみかみ)
 大己貴大神(おおなむちのおおかみ)
 応神天皇(おうじんてんのう)
由緒  元 村社
 北海道神社誌には次の様に載ってゐる(1)
由緒 明治二十七年七月、加藤泰秋子爵が旧領の伊予国大州藩内の久米村八幡神社の御分霊を戴き、加藤家留寿都農場の氏神として祠を建立して奉斎したことに始まる。大正四年六月に地元有力者たちが、大正天皇即位大典を記念して留寿都八幡神社の改築と村社昇格の運動をおこしている。このことから農場の氏神であったこの神社を地域住民の鎮守とし、加納富貴松、加藤農場からの寄附により社殿を新たに建立した。大正七年二月二十日、無格社、同十三年二月二十九日には村社に列せられた。昭和三十六年十二月二十六日、五ノ原地区の八幡神社を、また同四十三年三月十八日には知来別地区の金刀比羅神社を合祀している。
合併により合祀された歴史をもつ御祭
  神八幡神社応神天白工昭和三十六年十二月十六日合祀
  金刀比羅神社大己貴大神昭和四十二年二月十八日合祀

 境内の由緒碑には次の様に刻まれてゐる。
由緒記

 北海道 虻田郡 留寿都村 鎮守
留寿都神社

    大已貴大神
祭神 天照大 御 神
    誉田 別 命
由緒
本神社の起源は開墾の鍬を入れ安住の地たらんと欲し明治二十七年愛媛県久米郡八幡神社の神霊を加藤農場が住人の守護神として奉斎神祠を創建大正四年九月社殿を造営更に二柱の神を増祀留寿都村の産土神と仰ぎ氏子崇敬者住民の魂のよりどころとなる
大正七年三月三十日   無格社
大正十三年参月二十九日 村社
昭和二十一年六月十日  宗教法人設立

   奉  昭和五十二年十二月廾七日
   献  大原正雄
      父利久平翁承遺志寄進
雑記  留寿都村役場から北北東へ0.6kmの所にある。最寄駅はニセコ駅で道程20kmだが、実用的には直接札幌(道程75km)へ、或は、室蘭本線洞爺駅(道程30km)が便利なやうだ。

 由緒にある伊予国、或は愛媛県の八幡神社とは、松山市南久米町鎮座の日尾八幡神社だらうか。松山八社八幡の一社で、松山八社八幡は松山城を築いた加藤嘉明によって定められたといふ。

 下記写真の外に、「子爵加藤公頌徳碑」がある。
 碑文は漢文265文字で一部は不明瞭となってゐる。大正七年九月と年記がある。読むと(半分も理解できないが)、今日の留寿都があるのは子爵で旧大洲藩(愛媛県大洲市)主の加藤泰秋が開拓中止を請ふ者を説得したり、土質不適等の障碍にも拘らず開拓を成功させたからとしてゐる。
 碑題の書は正二位勲一等伯爵土方久元(元土佐藩士、宮内大臣などを勤め、大正七年死去、享年84)。
 ほかに、「山神」碑

 留寿都の大まかな歴史は、
・明治28年 真狩村開基
・明治30年 真狩村戸長役場設置
・明治34年 狩太村(現ニセコ町)を分村
・大正6年 喜茂別村(現喜茂別町)を分村
・大正11年 真狩別村(現真狩村)を分村
・大正14年 留寿都村と改称(昭和16年真狩別村は真狩村と改称)
・昭和16年 加藤農場開放終了、翌年黒田農場開放終了
・昭和58年 ルスツリゾート開園
 留寿都村と云ふ表記よりも「ルスツ」と云ふ片仮名表記の方が馴染んでゐる。ルスツのスキー場はみな片仮名だ。夕張の冷水山もマウントレースイだし、漢字表記が通用してゐたのに片仮名にしてしまふ。テレビコマーシャルの力は大きい。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 社頭
写真1 拡大 (1280×960)

社頭

社号標は平成二十二年奉納
鳥居は「奉納 昭和十五年九月」とある。

写真2 参道
写真2 拡大 (1280×960)

参道

写真3 社殿正面
写真3 拡大 (1280×960)

社殿正面

鳥居は「奉納 平成十九年九月、二00七年」とあり、個人名の外、スルツリゾート 加森公人、北海信用金庫(2)、JAようてい、外の名もみえる。もう一方の柱には「皇紀弐千六百六拾七年」とある。

写真4 社殿側面と地神塔
写真4 拡大 (1280×960)

社殿側面と五角柱地神塔

地神は、天照皇大御神、少彦名大神、埴安姫大神、倉稲魂大神、大已貴大神。

写真5 拝殿内
写真5 拡大 (1280×960)

拝殿内

写真6 忠魂碑
写真6 拡大 (960×1280)

忠魂碑

碑背には「昭和三年十月建之」とある。

写真7 手水舎
写真7 拡大 (1280×960)

手水舎

手水鉢は昭和五十八年九月八日奉納。

写真8 拝殿前からの眺め
写真8 拡大 (1280×960)

拝殿前からの眺め

御朱印
御朱印 拡大 (486×640)

御朱印

宮司さん(多分)が対応下さったが、お守と併せて\1000-、お守はいただかなかったが同額。真狩神社の御朱印もいただいたので同様。寄附をしたと思へば良いとも云はれたが腑に落ちない。狩太神社での対応にありがたく思ってゐたから、尚の事かも知れない。


出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.422
  2. 北海信用金庫:平成30年に札幌信用金庫・小樽信用金庫と合併し北海道信用金庫となってゐる。道内最大の信用金庫。

改訂記録
  • 令和06.03.14 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。

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