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御嶽神社(神奈川県秦野市堀西)

作成日 平成29年3月19日
よみ  みたけじんじゃ 地理院地図
参拝日  平成28年7月6日(水)
所在地  秦野市堀西653 (北緯35度22分46.52秒 東経139度10分24.50秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP  神奈川県神社庁 神社詳細 御嶽神社
祭神  日本武命 ( やまとたけるのみこと )
 宇迦之御魂命 ( うかのみたまのみこと )
由緒  境内の掲示には次の様にある。
御嶽神社御由緒
創建年代は不詳であるが、大昔からの言い伝えによれば貞観九年(867)に蔵王権現として創建されたと言う説や、さらに室町時代当初の正平二十年(1365)頃創建されたと言う説もある。又、地頭須田家より永正年間(1504〜1520)不闕(欠けることなく)「御供米」として玄米一斗宛上献があり、明治六年村社に列すと言う文書もある。又、江戸時代の寛文十一年(1671)宗旨門別帳が作成され、寺請檀家制度が完成し、神仏混淆思想が盛んになり当神社も月光山桂林時の持ち分となり「蔵王宮」と呼称される様になり、明治元年神仏分離令が出されて、神道の国教化が進み廃仏毀釈の運動が高まり、仏教を排斥し、寺や仏像を壊す行動が高まり、明治六年より御嶽神社と改称されたようです。新編相模風土記・中郡勢誌等の記述によると蔵王宮(御嶽神社)は堀四ヶ村の鎮守なり、ご神体は木像、例祭は八月八日となっている。然し、煙草耕作等の関係で例大祭は毎年四月四日と固定されてきたが、近年児童数の激減の為御神輿の渡御が休日で無いと困難になり四月四日以降の土曜日と変更された。
堀四ヶ村とは、堀山下村・堀川村・堀斎藤村・堀沼城(沼代)村のことで、尚堀斎藤村と堀沼城村が明治二十年頃から堀西村となった。従って、例大祭には、堀山下の堀之郷正八幡宮・堀川の八坂神社・森戸の神明神社・黒木の須賀神社・波多川の天津神社・学校前の浅間神社・新生町八幡神社・の代表が昔の堀四ヶ村当時の氏子として現在も参列されている。その他に、千村の白山神社・神社境内にある聖徳神社の代表も参列される。
◎御祭神
 御嶽神社の御祭神は日本武尊で、「古事記」や「日本書紀」によれば景行天皇の皇子で天皇の命令を受けて、九州の熊襲や、東国の蝦夷を征伐して、帰国の途中伊勢の国で亡くなられた。昔から武勇の優れた神様で、又、愛情のある歌人としても崇められ多くの人から信仰されている。
※大森稲荷神社の祭神は、宇迦之御魂命で五穀豊穣の神様で元亀元年(1570年)「織田信長の頃」大森式部吉正(大森宮司の先祖)が自宅に創建されておられたが明治末年に県庁の指示によって御嶽神社の合祀された。
◎境内社
※菅原神社(天神様)の御祭神は菅原道真公で、学問の神様です。一月二十五日が祭日で、昔は、子供たちがご神札を印刷し各家庭に配布し勉強が出来るようにお願いした。
※山の神様は、昔から春に山から里に降りて田の神となり秋には再び山に戻り山の神となると信じられ、農耕の守護神として信仰されてきた。
※天社神 春秋の社日(春分、秋分に最も近い前後の戌の日)に農事を休んで地神講を開き農家の方々が農作物の豊作や収穫の感謝をお祈りした。
※聖徳神社の祭神は聖徳太子で秦野西建築組合の方が太子講を開き、毎年一月と七月の二十二日に例大祭が執行され、工事の安全祈願をされます。
平成十五年(2003年)四月之建
雑記  小田急線渋沢駅から西北西へ1.1kmの所にある。

拝殿内には「蔵王宮」の扁額がある。
灯籠は昭和十六年に沼城氏子中により奉納、狛犬は昭和60年に建立されてゐる。

「みたけ」と読むので総本社は吉野金峰山寺の蔵王権現堂と思はれるが、「御由緒」では、修験について全く触れてゐないので、実際はだうだったのだらう。

 文部省は学習指導要領改定案で、聖徳太子の名を廐戸王と変へやうとしてゐるが、何の意図があっての事か憶測を呼んでゐる。祭神の名を変へる事はあり得ないが、五十年も経つと違和感をもってみられる様になるのだらうか。変へないでほしい。

写真

聖徳神社

菅原神社(天神社)

天社神


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