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岡崎神社(神奈川県平塚市岡崎)

作成日 平成27年3月17日
よみ  おかざきじんじゃ
参拝日  平成25年10月6日(日)
所在地  平塚市岡崎* (北緯35度22分20.7秒  東経139度18分30.6秒)
 地図:地理院地図  いつもNAVI
HP  神奈川県神社庁 神社詳細 岡崎神社
祭神  大山咋命 ( おおやまくいのみこと )
 猿田彦命 ( さるたひこのみこと )
 須佐之男命 ( すさのおのみこと )
 応神天皇 ( おうじんてんのう )
 大物主命 ( おおものぬしのみこと )
 菅原道真 ( すがわらみちざね )
由緒  
岡崎神社沿革         ( )内西暦年

所在地 平塚市 岡崎3650番地
往古は山王社(坂本山山王大権現)と称し創立年代は大同二年(807)と伝えられている。明治の初め日吉神社と改称、 明治六年(1873)七月三十日社格を村社と定められる。明治四十二年(1909)三月二十日 白髭神社外六社を合祀し 岡崎神社と改称
村社岡崎神社祭神大山咋比命
大祭日 十月九日

配祀
祭神     神社名   所在地       部落名
猿田彦命   白髭神社  岡崎310 字上ノ坪  北大縄
須佐之男命  八坂神社  岡崎3207字上ノ入  大畑
應神天皇   八幡神社  岡崎4212字古川   矢崎
大物主命  ┐
木花開耶姫命┴腰取神社  岡崎5343字城下   大句
菅原道真   菅原神社  岡崎5619字山ノ後  馬渡
火産霊神 ┐
奥津比古命├ 城山神社  岡崎5514字城山   入山瀬
奥津比売命┘
天照皇大神社 神名社   岡崎3650字山王久保 西海地
境内末社 稲荷神社 琴平神社 疱瘡神社
昭和三十一年(1956)九月三十日大句と馬渡しは伊勢原市(当時町)に分村合併したため祭神を旧氏神に返還
返還月日
馬渡 昭和三十二年三月二十日
大句 昭和三十二年九月二十六日

   平成元年(1989)二月吉日

 社殿の右側に山王神社の社殿がある。その近くに碑に、次のやうに記されてゐる。
西海地共有地寄附の記

 岡崎神社は滋賀県の日吉神社の系列に属する神社で、古くは坂本山天王大権現と称しました。 大同二年(807年)の創建と伝えられ祭神は大山咋命(オオヤマクイノミコト)で岡崎地区の鎮守様として、 五穀豊穣・家内安全を願う崇敬の拠り処として千二百年もの永きに亘り崇拝して参りました。
 縁起書によれば神社のかたわらに別当寺の岡崎山宝行寺がありました。これは天台宗の遠祖である恵心僧都(比叡山延暦寺の学僧)が 開かれたものと言われ数百年の間、天台宗の修行の道場として栄えました。寺は明治に入り閉鎖されましたが、この跡地は縁あって、 西海地有志六名が共有地として取得されました。以来、今日まで百余年間、西海地地区の村おこしの拠点としての役割を 果たしてきました。
 しかしながら時勢の推移は目まぐるしく、特に第二次世界大戦後の社会の急激な変化は、共有地の維持管理にも大きな負担を与える事となり、 共有地として従来通り継承していくか否かを決める状況となりました。 地区関係者二十八名の意見も聴取するなど慎重な検討が重ねられました。  その結果、次のような理由によって、この地を岡崎神社に寄附される事と決しられました。 即ち、この地がその昔、岡崎神社の 別当寺のあと地であった事、又、同神社境内地と一帯であり祭礼その他の行事も同一に永年行われてきた事、これらの歴史的経過をふまえ、 平塚市岡崎字山王久保 3652番地(宅地1086.96平米)を岡崎神社に寄附する事が最もふさわしい在り方だとの結論が下されました。 申し入れを受けた神社側は有難くお受けする事となりました。このような経過をたどって平成十七年八月三十日寄附に伴う手続きの一切が 終了しました。
 ここに経過の一端を述べ感謝の意を表すると供に、関係各位のご芳名を刻印し末永く顕彰の意を表すものといたします。
        名誉宮司 ○○○○
          宮司 ○○○○
雑記  小田急線伊勢原駅から南へ2.7kmのところにある。南には鈴川が東へ流れてゐる。川岸からは少し小高い丘の上にある。
 境内には、鳥居と灯籠を備へた碑があり、容易に確認できたものには次のものがあった。(1)忠魂碑(希典書)、 (2)祈念碑:西南之役従軍者・日清之役従軍者・日清及日露之役従軍者・日露之役従軍者・清国事変及日露役従軍者 ・大正三年乃至同九年役従軍者・尼港事件・昭和三年事変と別けて氏名が刻まれてゐる。 (3)祈念碑:上海事変満州事変日支事変大東亜戦争従軍者:昭和三十年四月建立 (4)招魂碑:日支事変・大東亜戦争 (5)殉難碑:明治十年から四十年の戦死者

「尼港事件」とは、何だらうかとWikpediaの「尼港事件」を読んでみた。 港が氷結して交通が遮断された冬期に日本軍守備隊を含む日本人731名、住民の半数に当たる6000名が虐殺された大正九年(1920)の尼港 (現在のニコラエフスク・アムーレ)における赤軍パルチザンによる虐殺事件であった。何も知らなかった。

 平成八年に竣工した社殿造営・本殿修復を含む造営経過を記した碑もある。


平成25年10月6日撮影

平成25年10月6日撮影

平成25年10月6日撮影

平成25年10月6日撮影

平成25年10月6日撮影


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