よみ
やさか だいじん
| 概要
| 八坂神社(相馬天王)は、建久三年(1192)に創建され、鎌倉市扇ガ谷に鎮座する。素戔嗚尊・桓武天皇・葛原親王・高望王を祀る。
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所在地
| 鎌倉市扇ガ谷(おおぎがやつ)一丁目13-45
北緯 35度19分25.68秒 東経139度33分0.31秒
地理院地図(ズームレベル15)
グーグルマップ(ズームレベル14)
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地図
| 参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
・東西59km 南北55km
・+印:当社位置
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・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
・本殿の位置に ○印 を記入
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HP等
| 神奈川県神社庁 神社情報 八坂大神
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祭神
| 素戔嗚尊(すさのおのみこと)
桓武天皇(かんむてんのう)
葛原親王(くずはらしんのう)
高望王(たかもちおう)
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由緒
境内の掲示には次の様にある。 (字体は掲示の字体に従った)
八坂大神「相馬天王」由緒
鎮座地 鎌倉市扇ヶ谷 1-13-45
祭神 素戔雄尊 桓武天皇 葛原親王 高望王
例祭 七月十二日
由緒
建久三年相馬次郎師常己が邸内に守護神として勧請して崇敬したのに始る その後現在の地に奉□する 世に相馬天王と称するはこの故である
神幸式は五日十二日の両日に行はれてゐたが今では十二日のみとなった中世御神幸の神輿荒ぶるを以って師常館の岩窟に納め新たに調進したと傳へられる独特の六角神輿は宗社である京都祇園八坂神社の形を伝承したものである
享和元年 慶応元年に社殿の改築が行はれた
明治六年村社に列格される
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『神奈川県神社誌』(昭和57年)には次の様に載ってゐる(1)。
由緒沿革 建久三年(1192)相馬次郎師常が、自邸(巽荒神の脇)の守護神として勧請したが、後に網引地蔵の西の山麓に遷され、更に寿福寺本堂の脇を経て現在地に奉遷された。世俗に「相馬天王」と称され、爾来、扇ガ谷の鎮守として崇敬される。享和元年(1801)及び慶応元年(1865)に改築があり、明治二年神仏分離に際して、「八坂大神」と改称、同六年村社に列格した。
中世、御神幸の神輿荒ぶるを以て師常館の岩窟に納め、別に神輿を調達したと伝えられる。独特の六角神輿は、宗社たる京都・八坂神社のそれを伝承したものである。
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『新編相模国風土記稿』には次の様に載ってゐる(2)。( )内は割注部分。
天王社 寿福寺ノ南ニアリ。村の鎮守トス。モトハ相馬次郎師常己カ宅地ノ(巽荒神ノ脇ニアリ)鎮守ニ勧請スル所ナリ。故ニ相馬天王ト号ス。此所ニ移セシ年代ヲ伝ヘス。土人伝ヘテ当社ノ神霊アラタナルニヨリ中古神輿ヲ相馬次郎ノ墓(浄光明寺ノ辺ニアリ)ノ岩窟ニコメ前ヲ石ニテ蓋ヒ別ニ神輿ヲ造ルト云フ。例祭六月五日ヨリ十二日ニ至ル。村持ナリ。
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| 雑記
| 最寄駅はJR横須賀線の鎌倉駅・江ノ電鎌倉駅で、当社から南へ0.5kmの所にある。
土地寄進の「記念碑」にある巽荒神は南微東へ0.2、銭洗弁財天は西北西へ0.75kmの所にある。
市役所は南南西へ0.6kmの所にある。
境内に土地寄進の「記念碑」があり、碑文は次の様。
鎌倉市佐助の銭洗弁財天の神域である境内地と、神域の尊厳な環境を保持している周囲の山林は、扇が谷に古くから居住している諸氏が代々共有管理し、主として扇が谷に鎮座する八坂大神、巽荒神、銭洗弁財天、各社の維持運営の資に当ててこられました
今回神威の末永い隆昌を企図された右諸氏は総意をもって、此の土地を扇が谷の鎮守である当宗教法人八坂大神に寄進して下さいました。よつてここにこの土地保有の趣旨と経過を明確にして、今後扇が谷三社相互間のきずなを一層深め、地域ノ繁栄を計る一助とすることと致しました。
ここに記念碑を建立して御厚意にこたえると共に、右諸氏の芳名を刻み、後世に永く敬神崇祀のあかしと致すものであります。
昭和五十九年三月吉日 宗教法人八坂大神
壽福智光書
(碑背には三十五名の氏名が刻まれてゐる)
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尚、銭洗弁財天は当社の境外末社だったが、昭和45年に独立してゐる。
社殿後方左手奥に「元神輿之碑」(写真7参照)がある。碑文は、以下。震災後の新造について記されてゐる。
畏シ八坂大神元神輿ハ大正十二年九月一日大地震ニ遭ヒテ社殿ト共ニ壊破セリ是ニ於テ氏子等相胥リテ之カ新造ヲ画図ス昭和八年七月四日工成リテ神前ニ報告祭ヲ行フ技工精妙更ニ神威、赫々タルヲ仰ク越エテ九年七月十二日斎戒沐浴シテ壊破セル元神輿ヲ火キ其浄灰ヲ此処ニ納メ之カ記念トシテ碑ヲ建テ以テ敬神ノ誠ヲ致ス矣
昭和十年七月吉祥
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