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西院野々宮神社(京都市右京区西院日照町)

  
参拝日 令和2年12月9日(水)
作成日 令和3年7月3日(土)
改訂日 令和6年3月3日(日)
 
よみ  さいいん ののみや じんじゃ  
所在地 京都市右京区西院日照町55
 (35度0分7.09秒 135度43分25.72秒)
 地図:地理院地図(ズームレベル15)
    いつもNAVI(ズームレベル13)  
地図  参拝当時の地図です。(最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。)
地理院地図、東西 59km×南北 55km の範囲の地図です
・東西59km 南北55km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
HP等  西院春日神社web内 当社ページ
祭神  倭姫命(やまとひめのみこと)
 布勢内親王(ふせないしんのう)
由緒  社頭の掲示には次の様に記されてゐる。
西四条斎宮  
西院野々宮神社由緒書


 御祭神 = 倭姫命 布勢内親王
 御祭日 = 四月一日 十月第二日曜日
 御利益 = 心願成就 女人守護
 鎮座地 = 京都市右京区西院日照町五十五番地

二柱の御祭神は供に伊勢神宮に斎主としてお仕された方で倭姫命は垂仁天皇布勢内親王は桓武天皇の皇女にあたられます
この地は平安時代に伊勢神宮の斎主に選ばれた皇女が伊勢へ赴かれるまでの間心身を清められるための潔斎所である野々宮が祭かれた聖地で、各地に残る野々宮の名称はここが発祥とされています
延暦十六年(七九七)八月二十一日に布勢内親王が、承平二年(九三二)九月十日には雅子内親王(醍醐天皇皇女)がそれぞれ野々宮にお入りになり伊勢御下向までの月日を世俗からはなれてこの地で過ごされました
  白い薄く咲ける花をも君がため
    折とじをればいろまさりけり  権中納言敦忠
  折らざらし時より匂ふ花なれば
    わがため深き色とやにみる   雅子内親王
この二首は玉葉歌集に記された藤原敦忠と、西四条斎宮称された雅子内親王の歌でまた小倉百人一百には維子内親王を想い敦忠が詠んだ
  あいみての後の心にくらぶれば
       昔はものを思わざりけり
の一首がおさめられ、王朝人の恋の舞台となったところでもあります。平安時代以後、天照大御神の御神鏡を伊勢の地に奉祀された倭姫命の御聖徳と、慈悲淑徳の誉れ高き布勢内親王を偲び 西院野々宮神社が創建されて以来、皇室をはじめ公家庶民にいたるまで広く崇敬を集めてまいりました。江戸時代以降 西院 春日神社の御旅所とされ 十月の祭典には天皇の御使いをはじめ多くの公家が参列し、現在でも十月第二日曜には春日神社の神輿二基が千人におよぶ供奉を従えて渡御され春日神社宮司斎主のもとに祭典が営まれます
社殿は、安永四年(一七七四)十月二十八日に桃園天皇より 宮中、賢所を拝領して造営されたものです。 古くは機織の守護神とされ織女の信仰厚く後には御祭神のコを偲び広く女人の守り神として女性の崇敬をあつめております
  平成十四年八月吉日
雑記  西院春日神社から南西へ0.6km、阪急電鉄京都本線西院(さいいん)駅から北西へ0.6km、京福電気鉄道嵐山本線西院(さい)駅から西北西へ0.7kmのところにある。

 西院春日神社へ参詣したところ、比較的近くに鎮座してゐる当社が御旅所で、御朱印も容易されてゐるとのことで、疲れを押して尋ねてきた。昨日から大きな神社を中心に参詣してきたが、当社のやうな小規模な、訪れる人が本当にゐそうもない静かな場にくると心が落着く。
 由緒書を読んで千年余の昔を想う。

これまで野宮(野々宮)神社には、嵯峨野にある野宮神社(H23)、埼玉県日高市の野々宮神社(H23)を参詣してゐる。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 社頭
写真1 拡大 (1280×960)

 社頭

写真2 境内
写真2 拡大 (1280×960)

境内

写真3 神門
写真3 拡大 (1280×960)

神門

写真4 御本殿
写真4 拡大 (1280×960)

御本殿

写真5 手水舎
写真5 拡大 (1280×960)

手水舎。井戸がある。

御朱印
御朱印 拡大 (701×960)


出典・脚注

改訂記録
  • 令和06.03.03 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)。白地図の誤記修正(誤:東西290km×南北270km 正:東西59km 南北55km)

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