ホーム北海道オホーツク管内 > 紋別市

紋別厳島神社 (北海道〈オホーツク〉紋別市花園町)

参拝日 令和4年6月9日(木)
作成日 令和5年6月10日(土)
よみ  もんべつ いつくしま じんじゃ
概要  厳島神社は北海道オホーツク総合管理局管内紋別市花園町に鎮座する。北見開拓の神社として北見の国魂神と云ふ。  
所在地  〈オホーツク管内〉紋別市花園町8丁目(社務所は1丁目6-4)
  北緯 44度21分18.71秒
  東経143度21分 3.77秒
 地理院地図(ズームレベル15)
 マピオン(ズームレベル15)  
地図  参拝当時の地図です。最新の地図は所在地欄のリンク先をご覧下さい。
地理院地図、東西 290km×南北 270km の範囲の地図です
・東西290km 南北270km
印:当社位置


地理院地図、東西 1.13km×南北 0.94km の範囲の地図です
・東西 1.13 km × 南北 0.94 km、
印:本殿の位置
 
HP等  北海道神社庁 北海道の神社 厳島神社
祭神  市杵島姫命 (いちきしまひめのみこと)
由緒  元 郷社
 北海道神社庁誌には次の様に載ってゐる(1)
由緒 明治九年当地漁場請負人村山伝兵衛(2)が創祀、明治三十年に無格社、大正七年村社、昭和三年郷社、昭和二十一年宗教法人設立、北見開拓の神社として北見の国魂神と云う。
雑記  最寄駅は、石北本線遠軽駅で南南東へ道程47kmの所にある。
 市役所は、当社から東北東へ0.3kmの所にある。

創祀について  由緒には「明治九年当地漁場請負人村山伝兵衛(2)が創祀」とあるが、伝兵衛の没年は宝暦7年(1757)と創祀明治九年(1882)は離れすぎて不可思議。弁天社が明治九年に厳島神社となったのを創祀としたと云ふことか、と想像するが。

かつて存在した鉄道
名寄本線の紋別駅があった。当社からは南南東へ0.2kmの所。
大正10年開業、平成元年廃止(名寄本線廃止に伴ふ)
鴻紋軌道 軽便鉄道で紋別─元山(鴻之舞) 28km 昭和18年竣工、昭和23年廃止。自動車運搬に切り替った。

鴻之舞鉱山  名前や大凡の所在地は教科書に載ってゐたので知ってゐたが、閉山後は地図に記号が無くなり正確な位置が判らなかった。鴻之舞鉱山は昭和48年閉山。鴻之舞地区には、曾て1万5000の人口も、今は0人(3)
 鴻紋軌道や鴻之舞地区はザ・ピーナッツやダークダックスが歌った「銀色の道」(塚田茂作詞、宮川泰作曲)のモデルとなった場所(4)、と云ふ。歌は良く聴いたが、それは知らなかった。
 二の鳥居(写真2参照)は住友鴻之舞鑛山鴻愛會が昭和14年に奉納されたもの。

故中尾学君殉職之碑  境内には、故中尾学君殉職之碑があった。北海道開発局長池田一男書。碑文は、次の通り。
故中尾学君ハ昭和四年旭川ニ生レ同二十五年北海道大学附属土木専門部ヲ卒業スルト共ニ北海道開発局網走開発建設部ニ入リ爾来港湾建設技術者トシテ精勤ス昭和二十八年四月紋別港修築事業所技術主任ヲ辞令偶々同年十二月二十一日現在地ニ於イテ
石材爆破採取工事監督中不幸偶発事故ニヨリ殉職ス
  昭和二十九年十月
(台座部分の嵌め板に)
殉職之碑台座老朽欠損につき北海道開発局職員及び同局退職者並びに網走建設業協会有志相集いここに修復し冥福を祈る
  慰霊碑改修事業賛同者一同
 平成三年十月
 当社の西側に紋別公園がある。園の一部は紋別港築港のための採石場跡で、大正12年から昭和32年まで採石された(5)と云ふ。

紋別市について
  1. 人口等 人口 2万0426人(5年4月末)  面積830km2(厚木市の8.8倍)
  2. 沿革
    ・明治13年、紋別村外9カ村戸長役場を設置
    ・昭和29年7月1日、紋別町・渚滑村・上渚滑村の1町2村の合併により紋別市発足
  3. 市内の神社  神社庁包括下の神社は、当社のほか、上渚滑八幡神社渚滑神社の三社。
  4. 元紋別町域の神社  住所に渚滑・上渚滑とある所を除いた所にある、国土地理院の神社記号は、当社の他に六ヶ所(6)ある。

写 真  (拡大写真は新しいタブ又はウインドウで開きます)
写真1 写真1 拡大 (1280×960)
 社頭
 大きな鳥居は本社の鳥居。昭和十年六月建之。
 向って右に社号標「厳島神社 陸軍中将三宅一夫(7)書」、側面に「北見国門別町鎮座 昭和十一年八月献 氏名」とある。
 向って右側の鳥居(木製)は、太平山三吉神社(境内社)の鳥居。「太平山三吉神社」の社号標がある。また、狛犬は大正六年八月の年記がある。

写真2 写真2 拡大 (1280×960)
 二の鳥居
 昭和十四年四月吉日、住友鴻之舞鑛山鴻愛會 奉納
 左手は社務所

写真3 写真3 拡大 (1280×960)
 社殿正面

写真4 写真4 拡大 (1280×960)
 斜め前からみた社殿

写真5 写真5 拡大 (1280×960)
 社殿側面

写真6 写真6 拡大 (1280×960)
 拝殿内

写真7 写真7 拡大 (1280×960)
 手水舎
 向って右手には境内社や忠魂碑がある。

写真8 写真8 拡大 (1280×960)
 三吉神社参道
 正面の僅か右側に三吉神社が見える

写真9 写真9 拡大 (1280×960)
 境内社
 手前から、三吉神社、稲荷神社、祖霊社
 祖霊社に向って右側に「紋別杯發功労者之碑」が建ってゐる。背面に「昭和二十四年八月一日 開町七十年記念建之 門別町長大西眞平」とあるが、具体的な功労者は碑を見る限りではわからない。

写真10 写真10 拡大 (1280×960)
 三吉神社の御本殿か

写真11 写真11 拡大 (1280×960)
 忠魂碑
 陸軍大将一戸兵衛書 とある。大将になったのは大正四年。
 台座には「紋別市戦没者氏名」が記された板が嵌めてある。台座の背部に次の文がある。
戦没者氏名板の設置に寄せて
 昭和二十年八月十五日の終戦以来半世紀の歳月が流れ、この間わが国は目ざましい復興を遂げ今日の平和と繁栄を築き上げているが、その陰には先の大戦に祖国の興隆と安泰を念じつつ散華された戦没者の尊い犠牲の上にあることを一時も忘れることが出来ない。
 戦後五十年の記念する年に、祖国のために身命を捧げた紋別を郷土とする三百六十五柱の英霊を顕彰し、その殉国の史実を永遠に伝承すると共に更生に於ける恒久平和への願いの標としてこの戦没者氏名板を設置する。
  平成七年六月十五日
 紋別市遺族会 会長 (以下135名転記略)
 奉賛会    会長、幹事長(氏名転記略)
 北海道軍恩連盟紋別支部 支部長(以下72名転記略)


写真12 写真12 拡大 (1280×960)
 一の鳥居辺りから港方向を望む


出典・脚注
  1. 『北海道神社庁誌』北海道神社庁 平成11年 p.596
  2. 令和5年6月7日閲覧  Wikipedia 村山伝兵衛  村山伝兵衛は、開拓神社 (北海道神宮末社)の祭神でもある。ところで、村山家当主は初代・三代・六代伝兵衛を襲名してゐる。初代伝兵衛は宝暦7年(1757)に亡くなった。
  3. 令和5年6月8日閲覧 旧町域の人口は、国勢調査町丁・字等別境界データセットの地域別人口を合計して求めた。
  4. 令和5年6月8日閲覧 Wikipedia 銀色の道
  5. 令和5年6月7日閲覧 webサイト「日本隅々の旅 全国観光名所巡り&グルメ日記」内 オホーツク庭園(北海道紋別市) 2009年11月11日 南行(なんぎょう)さん
  6. 元 紋別町域の神社  地理院地図による神社記号の位置と、Googleマップ・Googleストリートビューによる社名と社殿等の確認結果(神社庁包括下社を除く)。
    沼ノ上神社 44度14分13.00秒 143度31分2.28秒 
    ・弘道神社 44度15分15.64秒 143度27分21.66秒
    ・小向神社 44度16分56.53秒 143度26分43.66秒
    ・藻鼈神社 44度18分58.87秒 143度22分19.14秒
    ・八幡神社(藻別)44度15分20.84秒 143度21分45.64秒
    ・上藻鼈神社 44度11分54.37秒 143度20分30.86秒
     * 上渚滑域の神社は八幡神社(上渚滑)参照。
     * 渚滑村域の神社は渚滑神社参照
  7. 陸軍中将三毛一夫  昭和11年第七師団長に親補された。 Wikipedia 三毛一夫 令和5年6月5日閲覧

改訂記録
  • 令和06.01.30 ページ内の配置変更(スマホでの閲覧に配慮)

文頭へ移動  ホーム(神社訪問記)

inserted by FC2 system